目白学園遺跡

新宿ミニ博物館
目白学園遺跡 出土品資料室のご案内

出土品資料室

どなたでも見学いただけます。
以下カレンダーをご確認の上、来室をお願いいたします。

注意事項
  • 資料室内での飲食はご遠慮ください。
  • 車でのご来室はご遠慮ください。
  • 自由見学制のため、展示物に関する説明等はいたしかねます。
  • 団体見学をご希望の場合は、事前にご相談をお願いいたします。
  • カレンダーは随時更新いたします。最新版をご確認の上、来室をお願いいたします。

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発掘調査の歴史

  • 発掘調査1
    10号館建設前の発掘調査(2003年7月)
  • 発掘調査2
    遺跡フェスタで発掘現場の見学(2003年7月)
  • 発掘調査3
    弥生時代の住居跡(2003年7月)

目白学園遺跡では、昭和25年の遺跡発見から現在までに、12回以上に及ぶ発掘調査が行われてきました。これまでに、合計186軒の竪穴住居(縄文時代早期1軒、縄文時代中期住居95軒、弥生時代後期住居71軒、奈良時代住居18軒、時期不明住居1軒)が発見・調査されてきました。
その結果、妙正寺川・神田川流域のなかでは、縄文時代中期、弥生時代後期、奈良時代ともに拠点的な集落のひとつであることが判明しました。
これまでの調査では、想定される遺跡の広がりのうち、目白学園構内にあたる北側半分が重点的に調査されています。調査地点ごとに、見つかる遺構・遺物などに微妙な差が認められることから、ここで時代を追って確認してみることにします。

旧石器時代については、第10・11次調査で、今から約18,000年前と14,000年前の地層中から、ナイフ形石器や礫群(調理施設)が見つかっています。つづく、縄文時代早期や前期には、中期の集落からやや離れた場所(第10次調査区・第12次調査区の西寄り)で住居と考えられる遺構と、屋外炉が見つかっているのみです。しかし、中期の住居跡から、早期・前期の土器が少なからず出土しており、本来存在した古い時期の遺構は、より新しい時期の遺構により壊されてしまった可能性も十分考えられます。

縄文時代中期の集落について見ると、中期中葉から環状集落が形成されるようになり、中期後葉まで継続的に営まれていたことが判明しました。そして、中期末葉には環状集落の形態が崩れていくことも明らかになりました。
弥生時代の集落は、これまでの調査範囲のほぼ全域で見つかっており、縄文時代よりも広範囲に集落が形成されていたことが確認されました。また第8次調査では、台地の北寄りの場所で方形周溝墓が1基発見されています。この周囲には墓域が形成されていたと推定されます。

奈良時代の住居は、台地平坦面の北側にあたる、第4次調査や第11次調査ではまったく確認されていないことから、奈良時代の集落は、台地平坦面の南側から妙正寺川に向かう緩い斜面上にかけて広がっていたものと考えられます。縄文時代中期や弥生時代後期の集落に比べると、より南側に広がっていたことになります。

目白学園の外へ眼を転じると、台地上との比高差約10mを測る妙正寺川沿いの低位面上では、かつての調査で、旧石器時代の植物化石層や、縄文時代草創期の有舌尖頭器、早期前半の土器などがまとまって見つかっているほか、奈良・平安時代の掘立柱建物跡や土坑なども検出されています。旧石器時代の植物化石層については、正確な年代は不明なものの、寒冷地に特徴的な植物の遺体が確認されています。縄文時代については、台地上に集落が営まれる以前の遺物が多く見つかっていることから、台地上よりも古い時期に利用されていたと考えられます。
台地上から、妙正寺川の低地へ向かう緩斜面上には、中井御霊神社が位置しますが、ここでは弥生時代後期の住居の一部が確認され、壷も出土しています。台地南側に広がる緩斜面上では、近年、小規模ながら数次の調査が行われ、古代の住居跡や縄文土器の出土が確認されています。したがって、台地上とほぼ同様の土地利用がなされていたようですが、今後とも、遺跡の広がりや、時期による遺跡の性格の違いについて調べていく必要があります

周辺の立地と周辺の遺跡

目白学園遺跡は、妙正寺川との比高差約10m、標高約40mを測る「豊島台」と呼ばれる台地上に位置します。遺跡の中心は、妙正寺川が、東から西へ延びる「豊島台」へぶつかり、南にカーブする地点を眼下に望む、台地上の一端にあります。ちょうど、目白学園構内から中落合四丁目の中井御霊神社にかけての一帯(25,000平方メートル)にあたります。
周辺の遺跡を見渡してみると、縄文時代には明確な集落跡は見つかっていませんが、弥生時代後期に入ると、上流から順に、新井三丁目遺跡、高田馬場三丁目遺跡、西早稲田三丁目遺跡、そして下戸塚遺跡の環濠集落と、流域沿いに点々と集落が発見されています。古墳時代の集落は、本遺跡では見つかっていませんが、やや下流の高田馬場三丁目遺跡などで集落の存在が確認されています。奈良時代には上落合二丁目遺跡などで、本遺跡と同様の集落が見つかっています。なお、古墳時代の下落合横穴墓群は、高田馬場三丁目遺跡と関連のある墓域と考えられています。
また、最近の調査では旧石器時代の遺物も発見されており、今後、周辺遺跡との関係を検討していく必要があります。

出土品資料室

出土品資料室

出土品資料室は正門右側の佐藤重遠記念館1階にあります。
目白学園遺跡(落合遺跡)から発掘された数多くの遺物のうち、合計約50点が縄文・弥生・奈良の3時代に分類され、写真や説明パネル、年表などとともにわかりやすく展示されています。
縄文時代の遺物には、深鉢形土器などの縄文土器および打製石斧・磨製石斧・石匙・磨石などがあります。弥生時代の遺物としては、壷・台付甕(かめ)・高坏などの弥生土器を主に展示しています。
また、奈良時代のコーナーには、土師器(はじき)・須恵器などの遺物のほかに竪穴住居のカマドの復元模型が配置され、当時のくらしの様子を知ることができます。

出土品資料室の隣りには収蔵庫があり、第3次から第8次までの調査で発見された各時代の遺物が、責重な学術的資料として収蔵されています。

  • 出土品資料室_1
  • 出土品資料室_2
  • 出土品資料室_3
  • 出土品資料室_4

復元された竪穴住居(現在は老朽化のため解体)

復元された竪穴住居

学園西側の1号館脇に竪穴住居を復元しました(現在は老朽化のため解体)。この竪穴住居は、現在の佐藤重遠記念館の敷地の南側で発見されたS18号住居で、弥生時代後期の隅丸方形4本柱の竪穴住居跡です。
この住居は何らかの理由で火災にあった住居跡で、燃え残った建物の部材が住居全面に広がった状態で発見されました。発見された部材は、梁(ハリ)・桁(ケタ)・垂木(タルキ)などの炭化したもので、弥生時代住居の構造を類推することができる極めて貴重な資料です。

縄文時代

流域最大級の中期環状集落

目白学園遺跡では、今から約4,500年前にあたる縄文時代中期の竪穴住居が95軒見つかっています。竪穴住居のほとんどは、標高約40mの台地上平坦面を中心に、径130mほどの環状に分布しています。環の中心部分からは、30基以上の土坑(墓壙:ぼこう)が検出されており、広場や墓域として利用されていたと考えられます。このような集落を「環状集落」と呼びますが、目白学園遺跡は、神田川流域を中心とした武蔵野台地東部では、おそらく最大規模の「環状集落」と考えられます。
また、台地北西側の斜面では、台地上の集落から廃棄されたと考えられる土器や石器などが多量に出土しています。その中には、中期の土器ばかりではなく、中期集落が形成される以前の早期や前期の土器も少なからず含まれています。したがって、環状集落が形成される以前にも断続的に小規模な集落が存在していたと推定されます。

中期土器の地域色

縄文時代の遺物のうち、もっとも多いのは中期中葉~後葉にかけての土器です。中期中葉の土器は、関東西部を中心に広がる「勝坂式土器」と、利根川流域を中心とした関東東部にひろがる「阿玉台式土器」が出土しています。中期後葉の土器は、関東全域に広がる「加曽利E式土器」が主体的に見られ、中部高地を中心に分布する「曽利式土器」が少量出土しています。

道具と生業

土器のほかに、石鏃・石錐・打製石斧・磨石斧・磨石・石皿などの石器があります。石鏃が少なく、土掘り具である打製石斧や、木の実などを磨り潰すための磨石・石皿が多いことから、狩猟よりも植物性食料の採取・栽培を中心とした生業が営まれていたようです。また、石錘や土器片を再利用した土器片錘も多く出土しており、妙正寺川で漁網を使った漁撈を行っていたようです。
石器に利用される石材に注目すると、ハケ岳や箱根、神津島などで採取される黒曜石や、秩父地方に多い緑泥片岩などが利用されており、当時の交流範囲の広さが窺えます。
土器や石器などの実用的な道具のほかには、土製の耳飾や、祭祀に使われたと思われる石棒などが出土しています。
これら土器や石器など遺物の多くは、人が住まなくなって埋まりかけた竪穴住居跡の凹地や、台地周辺の斜面に捨てられた状態で出土しています。

竪穴住居の形

竪穴住居の形には、円形のものと隅丸方形のものと2種類があります。また、壁際に溝を巡らすもの、壁際に柱穴が存在するものなどのバラエティや、柱の数・配列にも違いが認められます。竪穴住居の中心には炉が作られますが、炉にも石で囲ったもの(石囲炉)、土器の上半分を転用して囲ったもの(埋甕炉)などの差があります。
このような違いは、住居の営まれた時間の差や、同一集落内に住み分けしていた集団の違いなどを反映していると考えられています。

繰り返し営まれた集落の姿

目白学園遺跡では、未調査範囲に存在すると考えられる住居跡を考慮すると、中期の約600年間に200~300軒以上の住居が営まれたと考えられます。しかし、住居の多くは一部が重なり合ったり、建て替えの跡が確認できることから、同時期に人が住んでいた住居は10軒程度と考えられます。そして、同じ場所を繰り返し利用した結果、非常に多くの竪穴住居が発見されるのです。このことは、縄文時代中期には落合の台地上が非常に生活に適した環境だったことを示しているのでしょう。

  • 勝坂式土器_1
    勝坂式土器
  • 勝坂式土器_2
    勝坂式土器
  • 曽利式土器
    曽利式土器
  • 加曽利E式土器
    加曽利E式土器
  • 打製石斧
    打製石斧
  • 8号住居跡全景(第9次調査)
    8号住居跡全景
    (第9次調査)
  • 13号住居跡全景(第11次調査)
    13号住居跡全景
    (第11次調査)
  • 遺物出土状態
    遺物出土状態

弥生時代

神田川流域における後期集落の展開

弥生時代は紀元前800年頃~紀元後250年頃までの間と考えられ、「早期」「前期」「中期」「後期」の4時期に区分されています。
弥生時代は、中国大陸からの影響を受け、稲の栽培や鉄器の使用が普及した時代ですが、これらの技術はまず北部九州に伝えられた後、徐々に日本列島の各地に広がったと考えられています。関東地方では、西日本よりやや遅れて前期末葉以降に稲作が行われるようになったようです。
妙正寺川・神田川流域では、後期に入ってから多くの集落が営まれるようになりました。下流域には環濠集落で有名な下戸塚遺跡、中流域には都内最大級の方形周溝墓をもつ西早稲田三丁目遺跡、小銅鐸が出土した高田馬場三丁目遺跡が、上流域には数百軒の大集落である中野区新井三丁目遺跡があります。目白学園遺跡の集落もこれら後期集落のひとつで、妙正寺川沿いの低地で稲作を行いつつ、台地上に集落を営んだものと考えられます。

土器にみる地域間交流

出土した遺物の多くは後期の土器です。器種は、貯蔵用の壷、煮沸用の甕、供献用の高坏があります。
後期には、関東地方のなかでも地域色豊かな土器が作られています。
その土地の土器を「在地の土器」、他地域の土器作りの技術をまねて作った土器を「外来系の土器」と呼び区別しますが、「外来系の土器」としては、東海地方・静岡県の天竜川東岸流域に分布する「菊川式土器」の影響を受けたものがあります。
このほかに、埼玉県の比企丘陵を中心に分布する「吉ヶ谷式土器」も発見されました。「吉ヶ谷式土器」は、口縁部から胴部に、荒い縄文が施されることが大きな特徴です。目白学園遺跡で発見された「吉ヶ谷式土器」は、口縁部に4段の輪積みの痕を残し、その上に荒い縄文が施された壷です。「吉ヶ谷式土器」は、これまでに新宿区内でも、下戸塚遺跡や戸山遺跡などでも見つかっています。
このように、「在地の土器」とともに、他地域の「外来系の土器」が出土していることから、弥生時代後期の目白学園遺跡では、広い地域間で交流があった様子がうかがえます。

弥生時代の住居

これまでの調査では、竪穴住居71軒、掘立柱建物跡1棟、方形周溝墓1基が確認されています。竪穴住居の形は隅丸方形のものがほとんどですが、大きさに着目すると、大形(長径9m以上)・中形(長径5~7m)、小形(長径5m未満)の3種類に分けることができます。このうち、中形のものが中心となります。
住居内には、中心奥壁寄りに炉が作られているほか、4本の柱穴、出入口用の梯子穴、貯蔵穴などが備えられるのが一般的です。
住居跡の中には、数軒の焼失住居も含まれています。何らかの理由で火災にあった住居の跡で、燃え残り炭化した建築部材が、住居跡の床面上から出土しました。弥生時代の住居構造が推察できる貴重な資料といえます。

  • 壷形土器_1
  • 壷形土器_2
  • 平底甕形土器
    平底甕
  • 高坏形土器
    高坏
  • 小型台付甕形土器
    小型台付甕
  • 土製品
    土製品
  • 吉ヶ谷式土器
    吉ヶ谷式土器
  • 7号住居跡(第11次調査)
    7号住居跡
    (第11次調査)
  • 8号住居跡(第5~7次調査)
    8号住居跡
    (第5~7次調査)

奈良時代

奈良時代の食器様式と落合式土器群

奈良時代は、710年の平城京遷都から794年の平安京遷都までをいいます。また、目白学園遺跡は、当時の武蔵国豊島郡、多摩郡、荏原郡の境あたりに所在しています。
この頃、有力な在地の豪族が各地方を支配した時代から、、中央集権国家の時代へと移行しました。
そのため、畿内から遠く離れた武蔵国でも、律令的土器様式といわれる宮都の食器様式を模倣して各地方の食器様式が成立するようになります。その一つとして、新宿区落合地区では落合式土器群が出現するようです。
落合式土器群とは、焼成坑で焼かれた土師器で、粘土紐をロクロの回転力を利用して巻き上げて作られた、赤色に着色した坏と、甕と甑(こしき)、台付甕、鉢が存在しています。しかし、登り窯で焼成された須恵器はまだほとんど普及していませんでした

住居とカマド

目白学園遺跡では、縄文時代以降、竪穴住居跡を基本とする生活様式が受け継がれてきました。一方、平地式あるいは高床式の住居は確認されていません。奈良時代の竪穴住居と縄文時代・弥生時代とが大きく異なるのは、厨房にカマドが採り入れられたことです。目白学園遺跡のカマドは、土師器長胴甕を逆立ちさせて置き、その上に長胴甕を連結して骨組みをつくり、粘土と砂を練り込めて造るという特徴があります。
カマドが造られるようになってからは、きわめて低燃費で少ない薪の消費によって、炊飯・調理が可能となったようです。

土器づくりの村

奈良時代の武蔵国では、荒川から北側では北武蔵型、多摩川から南側では南武蔵型、そして妙正寺川・神田川を中心とする地域では落合型と、地域ごとに特色をもつ土師器が生産されていました。
目白学園遺跡は、落合型坏に代表される落合式土器群の生産拠点と目され、土師器焼成坑といわれる生産遺構が19基確認されています。
焼成坑は、各地域でさまざまな形が見られますが、目白学園遺跡では、イチジク形といわれる特徴のある形をしています。また、多量の藁や薪を燃料にして土師器が焼かれるため、灰や炭、焼けた土が厚く堆積していることが多いのです。こうした焼けた土の様子から、覆い焼きといわれる方法で土師器が焼かれていたと推測されています。
焼成の方法は、地面を掘り窪めた焼成坑に、成形・乾燥した土師器を並べて、その上に、薪や藁によって天井の骨組みを造り、灰や泥で隙間を塞いで密閉して焼くのです。
覆い焼きは、須恵器や陶磁器を焼く窯と同じように、天井による熱の照り返し効果を利用して、長時間にわたって高温を持続させます。これは熱斑を少なくした焼き方であり、縄文土器や弥生土器と比較して、きわめて熱効率のよい焼き方なのです。

  • 4号住居跡全景(第12次調査)
    4号住居跡全景
    (第12次調査)
  • 4号住居跡カマド(第12次調査)
    4号住居跡カマド
    (第12次調査)
  • 6~8号焼成坑全景(第5~7次調査)
    6~8号焼成坑全景
    (第5~7次調査)
  • 10号焼成坑土層断面(第5~7次調査)
    10号焼成坑土層断面
    (第5~7次調査)
  • 1号焼成坑全景(第12次調査)
    1号焼成坑全景
    (第12次調査)
  • 落合式土器
    落合式土器
  • 覆い焼き実験模様
    覆い焼き実験模様

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【ご見学・出土品資料室についてのお問い合わせ
目白学園 法人本部 財務部管理課
TEL:03-5996-3115

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TEL:03-3359-2131